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エッセイ

ハワイの夏期学校体験記〜ピアノ科OG 相澤美智子さん

ピアノ科OGの相澤美智子さん 季刊誌No.184の「先輩こんにちは」に登場された、ピアノ科OGの相澤美智子さんから、娘さんと一緒にハワイでの夏期学校(2014年7月28日〜8月1日開催)に参加された時のご様子を生き生きとレポートしてくださいました。スズキ・メソードOB・OGの皆さんにとって、父となり、母となられた方々の気持ちと相通じるところがあるのではないでしょうか。「わかる、わかる」とうなずかれるところもたくさんあることと思います。
 相澤美智子さんは、現在、一橋大学大学院法学研究科准教授としてご活躍で、2012年3月に出版された著書「雇用差別への法的挑戦ーアメリカの経験、日本への示唆ー」(創文社)が、ジェンダー法学会の出している「西尾学術奨励賞」の受賞作に選ばれました。また、「Duo如水」の名前で、ヴァイオリン奏者でもある大先輩との演奏活動など、公私にわたって充実した生活を過ごされています。それでは、相澤さんのレポートが始まります。

はじめに

 2014年7月26日、5歳になる娘の真希子と私は、ハワイ・ホノルル行きの飛行機に乗り込んだ。目的は、観光ではない。7月28日(月)から8月1日(金)まで開催される夏期学校(ヴァイオリン科、ヴィオラ科、チェロ科対象)に参加するための渡米である。

1 ハワイの夏期学校の概要
(1) 参加の経緯

 4月の半ばだったかと思う。古谷いづみ先生(関東地区・ヴァイオリン科指導者)から「夏期学校に行きませんか」と案内のチラシを手渡された。見てみると、それは松本の夏期学校の案内ではなく、ハワイの夏期学校の案内だった。今回の夏期学校にお誘いくださったのは、ハワイでヴァイオリン科の指導者をなさっているシェリル・ショエット先生である。シェリル先生は、キャシー・ハフナー先生とともに、ハワイの夏期学校の企画者をなさっている。

 実は、古谷クラスとシェリル先生のクラスは、2013年6月(今回の夏期学校の約1年前)、東京で合同コンサートをしたばかりであった。以前からいづみ先生と親交のあったシェリル先生は、ハワイから10数名の有志の生徒さんおよび親御さんらを連れて来日された。私たち古谷クラスの親子はハワイからいらした親子と音楽を通じての交流をし、それはそれは楽しい半日を過ごした。シェリル先生は、そのような日米の交流が続くと良いと思ってくださったのだろう、ハワイで2年に1度開催される夏期学校の情報を、いづみ先生に伝えていらした。

 参加を決断するならば、4月中。5月以降に申し込むと、受講料が若干高くなる。フルタイムの仕事をもつ私は、7月末から8月初頭の時期に仕事を休めそうか、頭をフル回転させて考え始めた。学期末試験はどうするか(注:私は大学教員なので、7月末には学期末試験をしなければならない)。予定では、7月29日(火)だ。1週間前の7月22日(火)に試験を済ませてしまおうか・・・。2人分の航空券代に1週間分のホテル代。バカにならない金額だ。予算的に大丈夫だろうか。航空券代だけでも浮かせるため、溜ったマイルで飛べないだろうか・・・。そんなことを考えて数日を過ごしているうちに、同じ古谷クラスのR君のお母様のK子さんから、「お金がないから無理だと思っていたら、夫が『行ってきていいよ』と言ってくれたので、行くことにしました!」とメールが入った。R君とK子さんが行くなら、食事の時間など一緒の時間がきっと楽しくなるに違いない。我が夫は、仕事の都合上、どうがんばってもハワイには行けないと分かっていながら、「こういうのは、一度行ってみないと良し悪しなんて分からないよ。行ってきたら?」と勧めてくれた。娘のヴァイオリンには殊のほか熱心な彼は、本当は自分も行きたくて行きたくて仕方がないのに・・・。私は、そんな夫に感謝しつつ、娘とハワイに行くことを決めた(結局、古谷クラスから他に参加したのは、R君親子だけであった)。

 7月26日、お昼前にハワイに到着すると、娘は早速にホテルのプールで遊びたいと言い出した。時差ボケをとるために2日早く到着したのだから、ここで、ホテルで寝ていては意味がない。昼食後、私は娘とプールに行った。結局、1週間のハワイ滞在でプールに入ったのは、このとき1回限りだった。夜は、ホテルで普段のようにお稽古をさせて、早めに就寝した。

 7月27日、古谷達子先生(いづみ先生のお母様で、関東地区ヴァイオリン科指導者)が、R君とK子さんと同じ飛行機で到着。3人とホテルのロビーで合流する頃、真希子が「しんどい」と言い出した。様子をみると、微熱がある。私は一瞬慌てたが、すぐに思った。これまでも、海外に連れていったとき、大抵2日目に調子を崩していた。時差の関係で睡眠不足になっているからだ。水分をしっかりとらせて、しばらく休ませたら、絶対回復するはずだ。真希子は、本当にしんどいのか、ロビーの長椅子で横になり始めた。そこへ、到着された達子先生がいらして、真希子の肩をトントントンと優しくたたいてくださった。真希子は心地よい眠りに誘われたのか、そこで寝息を立て始めた。そして、しばらく熟睡した。

 小1時間くらいたった頃、真希子がムクッと起き上がった。そのときの表情を見て、私は直観的に「回復した!」と思った。熱は完全に下がっていた。夏期学校開始までに回復して、本当によかったと安堵した。

(2) 夏期学校の日程と真希子の時間割

 ホテルのロビーで真希子が回復した、と喜んでいたところに、指導者講習会(Teacher Training)のため数日前から現地入りされていたいづみ先生が合流され、達子先生、いづみ先生、R君、K子さん、真希子、私の6人が顔を合わせた。皆で軽く昼食をとることになった。昼食時、いづみ先生がR君と真希子それぞれにパッケージを渡してくださった。パッケージには、時間割表や昼食券などが入っていた。

 時間割表を見ると、午前は8時から12時15分までの約4時間、午後は13時から17時までの4時間で、間に45分の昼食休憩がある。昼食前の1時間(11時15分~12時15分)は、ホールで全生徒参加の日替わりイベントがある。真希子の場合、次に記すように、毎朝9時から、1時間単位で、5時間のレッスン・スケジュールが組まれていた。ちなみに、上級生のR君は、6時間のレッスン・スケジュールが組まれていた。

 真希子の時間割の詳細をお伝えしよう。9時~10時はリトミック(アメリカでは、ダルクローズという)、10時~11時は自由利用時間(自主練習か、他人のクラスの見学)、11時15分~12時15分はホールにて日替わりイベント、昼食後の13時~14時は4巻のグループ・レッスン(ちなみに、4巻のグループは、ヴィヴァルディのa-mollのコンチェルトが弾ける子とそうでない子の2つのグループに分かれていた)、14時~15時が技術指導のグループレッスン、15時~16時がマスタークラス(個人レッスン)となっていた。個人レッスンは4人1組で1時間なので、1人あたりのレッスン時間は15分となり、残り45分は見学となる。ちなみに、R君のような上級生になると、2人で1時間なので、1人30分ずつのレッスンとなる。

 日替わりイベントのメニューは、次のようであった。〔月曜〕講師紹介およびオープニング・コンサート、〔火曜〕リトミック講習(初級者から上級者まで全員参加)、〔水曜〕講師によるコンサート、〔木曜〕上級生によるカルテット・コンサート、〔金曜〕オーケストラ・コンサート。木曜のカルテット・コンサートには、約10組のカルテットが参加した。いずれのグループもヴァイオリニストは、7巻以上かつ一定年齢以上のメンバーで構成されていた。オーケストラのヴァイオリン・パートは、3巻~6巻を勉強する一定年齢以上の子どもたちで構成されていた。一定年齢以上という条件がついていた正式の理由は分からないが、恐らく、年齢の低い子は総じてアンサンブル能力が低いこと、また、カルテットの場合、年齢が低いと楽器のサイズが小さくなり、他の奏者の音にかき消されてしまう可能性があるなどの事情からだろうと思われた。以上のほか、最終日(金曜)は、夜6時半からお別れコンサートがあった。

(3) 参加生徒と講師陣

 アメリカでは、学校が夏休みに入る5月半ばを皮切りに、8月半ばくらいまで、全米各地でスズキ・メソードの夏期学校が開催される。私たちが参加したハワイの夏期学校はその1つである。開催地によっては、ピアノやフルートのレッスンもあるが、ハワイは、ヴァイオリンとチェロのみを対象としていた。今回のハワイの夏期学校には、206名の生徒の参加があった。そのうち、アメリカ本土から参加していたのは10名、日本から参加したのが、真希子、R君、そして千葉からきていたM君の3名、残り193名はハワイの地元の生徒たちだった。

 一方、講師陣は、アメリカ本土の先生方。地元ハワイの先生方は、いっさい子どものレッスンをなさらなかった。彼ら・彼女らは指導者講習を受講し、日替わりイベントに参加し、子どものレッスンの見学をするだけであった。地元の先生が子どもたちを教えないのには訳があった。

 ハワイは小さな島だ。地元の先生が地元の子どもたちを教えると、狭い社会の中では、「あの先生(の指導)はいい」、「あの先生は良くない」などという噂が飛び交い始めること、必至だ。場合によっては、「良くない」とされた先生の生徒が「いい」とされる先生のところに移るなど、特定の先生に生徒が集中するようなことが起こるかもしれない。そういう事態は避けなければならない。それが、「地元の先生は地元の子どもを教えない」というルールの背後にある理由だとシェリル先生が教えてくださった。日本人もそうだが、島国の人は争いごとを好まない。そして、それを回避する知恵を身につけていく。「地元の先生は地元の子どもを教えない」というルールは、島で生きる人々の知恵の産物なのだろうと思った。

 シェリル先生は、本土から招いた講師を評して、「私たちは、アメリカにいる最高の先生方をお招きしている」とおっしゃっていた。その言葉に恐らく偽りはないのだろうということは、レッスンを1週間見学して痛感した。講師の中には、日本にもたびたび来日されてきたブライアン・ルイス先生がいらした。また、松本音楽院(当時)で何年にも渡り、鈴木先生から直接にご指導を受けたというアラン・リーブ先生もいらした。彼らは、ご自分のヴァイオリンのケースに、かつて鈴木先生と並んで撮影された写真を入れ、お守りのようにしていた。80歳を過ぎ、ご自身も鈴木先生のご指導を直に受けられた達子先生は、ルイス先生やリーブ先生のレッスンをご覧になって、「鈴木先生の教えを忠実に受け継いで、(レッスンの中で)実践していますね」とおっしゃっていた。比較的若手の先生の中には、自身がスズキ・メソードで育ち、指導者なったという方もいた。アメリカにおけるスズキ・メソードの歴史も長くなってきているのだと感じた。その他、何人もの先生が、子どもにスズキ・メソードで音楽教育をする傍らで、音大でも教鞭をとっていらした。

(4) 生徒のクラス(教室)編成

 ハワイの夏期学校は参加者が200名余りで、松本の夏期学校と比べれば規模が小さい。それ故、生徒のクラス編成は、松本のように曲目ごとではなく、基本的には指導曲集の巻ごとになっていた。人数が集中している巻については、その巻のほぼ最後まで勉強し終わっている子たちと、その巻の前半くらいしか勉強し終わっていない子たちを分けるなど、複数クラスを設けていた(例えば、4巻については、ヴィヴァルディまで弾ける4Aクラスと、3巻の最後からザイツくらいまでの4Bクラス、というように)。個人レッスンのクラスは4人1組なので、進度が似ている子4人を一緒にしていた。また、ヴァイオリンについていえば、7巻以上は巻ごとのクラス編成ではなく、「上級生」クラスと一括りにされていた。

 ヴァイオリンの勉強の進度と関わりなく、年齢を基準に編成されているクラスもあった。例えば、リトミック、カルテット、オーケストラなどがそうである。真希子の1時間目のリトミックのクラスには、3歳から8歳くらいまでの子がいた。その子たちのヴァイオリンの進度は1~2巻といったところで、年齢は5歳であるにもかかわらず、(当時)4巻のヴィヴァルディを勉強していた真希子は、ヴァイオリンの進度では突出していた。真希子とグループレッスンのクラスが4Aで一緒だった9歳の女の子は、リトミックのレッスンはなかったが、年齢が9歳であったことから、代わりにオーケストラのレッスンが組み込まれていた。

2 レッスンの思い出

 真希子のスケジュールに沿ってレッスンの思い出を綴ってみたい。

(1) リトミック

 ニューヨークからいらした中国系アメリカ人のミミ・シュウ先生が指導者。ピアノで即興演奏をされながら、子どもたちに口頭で指示を出していく。「ビートに乗って、身体を上下させて」、「音楽が変わったでしょ、これは小走りの音楽ですよ」、「音が止まったら、身体も止まるはずですよ、誰ですか、まだ動いているのは?」等々。真希子は英語で指示されていることが最初は分からず、周りのお友だちを見て、その動きに合わせるしかなかったため、ストレスを感じているようだった。1日目のリトミックが終わり、2日目になると、「やりたくない」と言い出した。私も、彼女の心境が分からないでもなかったが、こういうものは慣れさえすればできるはずと思い、慣れさせるために、少し厳しい態度で「やりなさい」と促した。

 2日目、3日目と、ミミ先生は前日にやったことを復習しつつ、新しいメニューを加えていかれた。例えば、ドレミの音それぞれに対応するハンドサインを教えて、ドレミで歌を歌いながら、同時にハンドサインでその音を示していく。しかも音の高低に合わせて、手の高さも変えなければならない。私も一緒にやってみたが、習ったばかりのハンドサインで音楽を「奏でる」のは、大人でも大変だった。

 音楽の終止形を教えるために、野球のベースのようなものを用意して、部屋のあちこちに配置しておく。子どもたちは音楽が鳴っている間は、音楽に合わせて、テンポの速い曲であれば走り回り、緩やかな曲であれば歩くなどしているのだが、終止形が聴こえてきたら、かならずベースに戻り、足をつけなければならない。
 輪唱の指導もあった。音と音が重なり合うと――しかも同じ旋律が時間差で奏でられると――どのようなハーモニーが生まれるのかを、子どもに味わわせていた。

 他にも書ききれないほどの盛りだくさんの内容で、毎日1時間のレッスンはあっという間に終わった。真希子も3日目くらいから慣れてきたのか、「やりたくない」を言わなくなった。ミミ先生にとてもなつき、4日目、5日目になると、レッスンの前に先生の背中に飛び乗って、一緒に遊ぶようになった。彼女は、英語は話せなくても、意思疎通の方法は心得ている。

(2) 日替わりイベント

初日のオープニング・コンサートの模様です。しゃがんでいるはだしの先生が、グループレッスンを担当してくださったブルック・モーズ先生で、目の前が真希子です。子どもたちの演奏に表情をつけるために、立ったり、しゃがんだり、いろいろな姿勢をとりながら、子どもたちと目を合わせ、目でいろいろなことを訴えていらっしゃいました。  日替わりイベントの中でも特に印象深いのは、真希子も出させていただいたオープニング・コンサートとお別れコンサートだ。オープニング・コンサートは、最初はチェロ科の子どもたちの演奏。数曲の後、椅子を撤去して、今度はヴァイオリン科の子どもたちが全員ステージに上がり、キラキラ星を演奏するという方法だった。キラキラ星が終わると、講師の先生方が順番に檀上に現れて、自分の好きな曲をリクエストする。その曲が弾けない子は、その場に座り、次に弾ける曲がリクエストされれば、再び立ち上がって弾く。そういう方式で、小1時間のコンサートが行われた。

 真希子は5歳の中でも若干小柄なので、3歳児や4歳児と一緒に、ステージの最前列中央に立たされた。本番になると本気になる彼女は、普段よりも良い姿勢で、肘もちゃんと動かして(肘を使って演奏することは、古谷達子先生に再三言われていることだった)堂々と演奏していた。周りの小さいお友だちは、3巻の曲になると、半分以上が座った。そして、4巻のヴィヴァルディa-mollがリクエストされたとき、前の方で立っていたのは、5歳の真希子と6歳の(やはりとても小柄な)男の子の2人だけだった。

 アメリカ人は、日本人に比べて、人を誉めるのが上手である。ストレートに言葉に出して賞賛する。周りのお友だちが座っているなか、立ってヴィヴァルディを演奏している真希子は、皆の賞賛の的となり、真希子のDVD撮影をしている私が彼女の母親だと分かると、たくさんの方々が私に「あなたの娘さん、すごいわね」と賛辞を送ってくださった。ハワイの日系人や中国系、韓国系のアメリカ人は、教育にとても熱心である。中には私に、「彼女(真希子)は、楽譜が読めるの?」、「1日どのくらいお稽古しているの?」と聞いてくるお母様もいた。

 ちなみに、真希子が楽譜を読めるのか尋ねてきたお母様の娘さんは7歳で、1巻の勉強をしていたが、受け持ちの先生は、もう読譜を教え、家でも読譜の練習をするように指示しているそうである。そのお母様は、真希子が4巻を勉強しているのに、読譜はまだだと知って、仰天していた。「じゃ、何であんなに複雑な曲が弾けるの?」と真剣な表情で質問をしてきた。今度は逆に、私が不思議になって尋ねた。「CDを聴かせていたら、自然に音を覚えませんか?」「真希子は聴いて、耳で音を覚えているので、自分で大体の音はとって弾きますよ。不正確なところは、お稽古の時間に、私がドレミで歌ってあげると、ちゃんと弾けるようになりますね」。すると、そのお母様は、「聴くって、いつ聴かせているんですか」と尋ねていらした。私が、「いつって・・・例えば、食事のときとか、車に乗っているときとか、お風呂の時間とか・・・」と答えると、「えぇっ、お風呂の中でも???」とびっくりされたようである。お風呂の中はともかくとしても、「いつ聴かせるの?」と質問をしてこられるあたりからは、そのお母様が家庭で余りCDを聴かせていないのかもしれないと思われてならなかった。聴かせずに、1巻の子に読譜を教えたら、それはもう、従来の音楽教育でしかない。スズキ・メソードで勉強させている意味がない。私はもう少しで「スズキ・メソード、分かっていますか?」と言ってしまいそうだったが、そこをぐっとこらえた。

 話が脱線したが、オープニング・コンサートでは、檀上で曲をリクエストする講師の先生方のパフォーマンスが印象的だった。曲に合わせて跳ねたり、しゃがんだり、伸び上がったり、前にせり出してきたり・・・子どもに表情豊かな音楽作りをさせたいという気持ちがよく伝わってきた。日本の子どもたちは、アメリカの子どもたちと比べて、総じて「おりこうさん」な弾き方はするが、面白みに欠ける部分もあると感じた。

 お別れコンサートについては、最後に書くことにしよう。

(3) グループレッスン

 娘の入っていた4Aクラス、すなわち4巻の後半まで弾ける子のグループの担当の先生は、カリフォルニアからいらしたブルック・モーズ先生であった。Tシャツ、短パン、素足という気取らない姿で、冗談も飛ばしながら、毎日楽しくレッスンをしてくださった。4巻の曲の中でも、とくにザイツの2番のコンチェルトの3楽章と、ヴィヴァルディのa-mollの1楽章を中心に見てくださった。

 例えば、ザイツのレッスンのときのことである。子どもたちに、第2テーマを弾く時はワルツのようなステップを踏みながら弾くように指示された。子どもたちは、人にぶつからないよう注意しながら、部屋を旋回し、踊って演奏をした。その演奏は、それ以前よりも表情が豊かになったように感じた。

 翌日には、同じコンチェルトを素材に、次のような面白いレッスンがあった。「先生をよく見て、真似をして(弾いて)!一番よく真似ができた人には、これをあげよう!」先生はそうおっしゃると、子どもたちに1ドル紙幣をチラつかせた。コンチェルトを弾き始めた先生は、姿勢、身体の揺らし方・止め方、フレーズとフレーズの間の間の取り方、弾いているときの表情まで工夫して演奏された。子どもたちは表情まで真似しようと必死だった。英語をほとんど解さない娘は、最初、何が始まったのかをまったく理解していなかったようだった。私は急いで娘のところにいき、練習の主旨を通訳して伝えた。すると、彼女も先生の一挙手一投足を見逃すまいと、真剣に先生を見つめて弾き出した。モーズ先生は最後まで弾ききると、アシスタントの先生に、「誰が一番僕に似ていた?」と尋ねられた。アシスタントの先生は、「そうね、Aちゃんもよかったし、B君もよかった・・・」と数人の子どもの名前を挙げた。すると、モーズ先生、「こまったなぁ・・・ここにはお金が1枚しかない・・・じゃぁ、これをちぎって、みんなに分けようか?」すると、子どもたちは、「そんなのもらっても(ちぎれた紙幣の1断片をもらっても)意味ないよ」と反論。結局、子どものその言葉で、お金をあげるという約束はご破算になった。先生の勝ちだ!

(4) 技術指導(テクニカル・クラス)

 技術指導も毎日小1時間あった。娘のクラスの指導にあたってくださったのは、ミネソタからいらしていたマーク・ビョルク先生。このクラスは、指導曲集にある曲を素材にして、弓の使い方やピチカートの響かせ方を習うというクラスで、幼稚園年長の娘には少々退屈さも伴うレッスンだったようだ。5日、実に多くのことを教わったため、すべてを書くことは難しいが、このクラスの趣旨が伝わるように、その一端をご紹介しよう。

 例えば、①音は一音も出さず、弓先と根本をA線に乗せるだけの練習。そのスピードがどんどん上がっても、音を出すことは許されない。②1巻の無窮動をできるだけ細かい刻みのアップボウで弾き、一度もダウンボウを使わなくてもよいように、弓の量を加減する練習。③親指と人差し指のみで弓を持って、無窮動を弾く練習。④ロング・ロング・アゴーを素材に、全弓を使うフレーズと半弓(半分より先)を使うフレーズを意識させて弾く練習。⑤ユダスを素材に、フレーズの終わりで弓のスピードを下げて弾く練習、等々。
上述した以外にもピチカートの練習や、弓の重さを感じる練習、小指を鍛える練習などいろいろあった。総じて、小学校の高学年以上の子どもは、先生の話を聞きながら、それぞれの練習の目的を理解しているようだったが、小さい子どもは、練習の目的をまったく解していないようだった。せめてゲーム感覚で楽しめれば、と願わないでもなかったが、そこは先生のタイプと力量にかかっている。ビョルク先生は、鈴木先生のような、小さい子どもを笑わせて、ゲーム感覚で技術練習を楽しませるようなタイプの先生ではなかった。どちらかといえば理論を言葉で説明する先生であったので、その点では一定年齢以上の子どもに向いている先生であったと思われる。しかし、小さい子どもが退屈してあくびをしたり、集中力を欠いたりしていても決して怒らない優しさと穏やかさを備えていらっしゃった。それゆえ、真希子も毎日1時間のレッスンに耐えることができたのであった。

(5) マスタークラス(個人レッスン)

女の子3人(右端が真希子)に個人レッスンをしてくださった親には厳しいアラン・リーブ先生。最終日のレッスン終了時に撮影。 真希子のマスタークラスのレッスンをしてくださったのは、アメリカのスズキ・メソードの指導者の中でも有名なアラン・リーブ先生だった。かつて松本に留学され、長期にわたり鈴木先生のご指導を受けられ、それを忠実に後進に伝えていらっしゃる先生である。子どもには優しく、ユーモアのセンスもあった。「ザイツさんの電話番号は、何番だか知ってるかな?235153だからね」などとおっしゃって子どもを笑わせていたことが思い起こされる。他方で、親にとっては「堪える」先生であった。レッスンの内容に妥協がないからである。しかも、5日間という限られた時間の中で、課題を与えるのみならず、「成果」を出そうとなさるから、問題のあるところばかりを繰り返し弾かせるというレッスンになり、親にとっては子どもの悪いところばかりを突きつけられるという「辛い」毎日になった。

 レッスン初日、子どもはそれぞれレッスンしてもらいたい曲を決めた。真希子はa-mollの1楽章にした。最初の日は最後まで聴いていただけたが、それ以降、1度も通しで聴いていただくことはなかった。先生は最初の演奏を聴いて、子ども1人1人につき、その子に5日間で何を伝えるのかを決められたようである。真希子の場合は、弓の持ち方と弓の動かし方を課題として設定されたようであり、1日目の通し演奏の後は、すぐにピンポイント・レッスンになった。

 まず、弓の持ち方であるが、鈴木先生は小さい子どもに最初に指導するときには、親指を毛箱の下に添えるように教えていたそうで、鈴木先生の教えを直接に受けた真希子の受け持ちの古谷達子先生も、最初はその持ち方をするようにと教えてくださった。真希子は2歳4か月から約3年ほど、その持ち方で練習し、ちょうど今回の夏期学校に参加する数週間前に、いわゆる大人の持ち方に変えたところだった。それが原因で、まだ大人の持ち方が安定しておらず、弓がふらつき、それを安定させようと、弓を握りがちであった。アラン・リーブ先生は、そんなことはご存知ないので、弓の正しい持ち方が出来ていないと厳しく注意された。いや、正確に表現すれば、子どもには優しいのである。「弓がふらついているよ」と伝えるときには、ご自分が弓になったつもりで、フラフラと上半身と手を動かし、子どもを笑わせる。真希子はそれを見て、キャッキャと笑う。しかし、リーブ先生、親には厳しいのである。「これ(正しい弓の持ち方)が出来ないと、次のことは何もできませんね」と、かなり真剣な表情でおっしゃるのである。その表情は、「よくこんな持ち方で、a-mollを弾かせていますね」とこちらを糾弾しているようであり、私はとても惨めな気持ちになった。余りに辛くて、日本にいる夫にメールをしたら、「惨めな気持ちになるのは、みっちゃん(私)が真面目すぎるからだよ。俺はもう少し鈍感だから、そういうふうには感じないと思うな」と返信してきたが、真面目すぎると言われた性格がすぐに変わるわけでもない。

アラン・リーブ先生の個人レッスンを受ける真希子。最終日、弓の持ち方と動かし方が随分と良くなって、a-mollの4分の3くらいまで(最後のsoloとtuttiを除く)聴いていただいたときの様子。 弓の動かし方についていえば、リーブ先生は、a-mollの主題を弾くときに、弓の中心部分の毛が平らに弦に当たることを課題とされた。別言すれば、弓が傾き、毛の一部しか弦にあたっていない状態をよしとされなかったのである。これも、弓の持ち方を変えたばかりの真希子には、簡単にできることではなかった。彼女の弓は傾き、毛の一部が浮いて、弦に当たっていなかった。しかも、弓の中心部分ではなく、やや根本に寄ったところでa-mollの主題を弾いていたのだった。

 結局、初日の課題は、「家に帰って、弓を正しく50回持つ練習をすること」だった。その日、ホテルに帰って、真希子に弓を正しく持つ練習をさせた。彼女は、曲もかなり弾けるようになっているのに、弓をもつだけの練習には耐えられないようだった。曲を弾きたがった。何回か弓を持つ練習をして、正しく持てるようになったら、そのまま曲を弾き始めた。でも、すぐに手の形が崩れて、最後まで正しい持ち方で弾ききることができなかった。本人は悔しくて、「マァマァー、マァマァー」と大泣きした。弓を持つこと32回目、正しく持った弓で、ようやく一曲を弾ききった。弾いたのは、2巻のヘンデルのブーレだった。本人は、それで集中力が切れた。残り18回は、翌朝起きてから練習させた。

 2日目に与えられた課題は、正しい弓の持ち方で、キラキラ星変奏曲のCのヴァリエーション(古谷達子先生は、汽車の「シュッポポ」という汽笛の音になぞらえて、「シュッポポのリズム」とおっしゃるが、その「シュッポポ、シュッポポ」)を弾いてくることだった。a-mollの主題のE・AAA・A・CHA・CHA・CHA・・・のA・CHA・CHの部分は、キラキラ星変奏曲のCのヴァリエーションと同じリズムだから、というのが理由だった。

 しかし、シュッポポの練習をして3日目のレッスンに臨んだところ、結局レッスンでやらされたのは、開放弦を弾くことだった。しかも、この3日目のレッスンの後のビーチ・ピクニック(後述)で、私はリーブ先生から「彼女(真希子)の弾き方は、キラキラ星もまともに弾けない、そういうレベルの弾き方だ」と断言されてしまった。今までの努力のすべてを否定されたような気がして、このときは本当に悔しかった。いずれは弓の持ち方を大人の持ち方にかえなければならないとはいえ、そのタイミングを出発数週間前にしたことで、夏期学校でここまでの苦い思いをしなければならないとは。

 リーブ先生のレッスンは、結局、月曜から木曜まで、ずっと上述したことの繰り返しだった。弓を正しく持って、弓が傾かないように弓を上下に動かす。ハワイにまで来て、開放弦だ、キラキラ星だ、と言われ、歯がゆい思いの連続だった。

 しかし、金曜のレッスンのときであった。真希子の弓が、それまでのように傾かなくなった。ゆっくりのテンポでなら、a-mollの主題を、弓を弦に平らに当てて弾けるようになってきた。レッスン5日目にして、ようやくa-mollの4分の3くらいまで弾かせてもらえた。リーブ先生は、「そうだよ!それが音というものだよ!これですべての音がちゃんと聴こえるようになった!」と真希子を誉めてくださった。私がそれを通訳すると、彼女は何となく嬉しそうにしていたが、そもそも事の重要さを十分に認識していない5歳児には、「何のことかよく分からないけど、なんか誉められているみたい」という程度の出来事だったようである。

 親には厳しいリーブ先生、毎日レッスンのたびに唇をかみ、ホテルに帰って娘に練習をさせていた私に対するねぎらいの言葉は、ひと言もなかった。でも、ハワイに来て、何を一番の課題として日本に持ち帰ったかといえば、このリーブ先生の教えであった。正しく弓を持つこと、そして、弓が平らに弦に乗っていること。簡単なことのようであるが、これをすべての曲で実践し、定着させるのには、毎日のたゆみない訓練が欠かせない。定着させるには、何週間、何か月、あるいは何年という時間がかかるかもしれない。しかし、それをやり遂げるのだ!そのような固い決意ができたのは、リーブ先生が私を悔しさと惨めさのどん底に突き落とし、子どもが少しできるようになっても私を誉めたり、ねぎらったりなさらなかったからであろう。子どもの頃から真面目で、悔しい思いをすると、とことん努力するようになる私の性格を、先生がご存知であるわけがなかったが、リーブ先生の厳しさは、結果的に私にそのような心理的作用を及ぼしたのだった。

3 雑記
(1)シェリル先生と先生の生徒さんの親から受けたご親切

 今回のハワイ滞在が快適なものになったのは、シェリル先生のお陰であった。先生には感謝の言葉もないほどである。

シェリル先生(後列左から2人目)御用達のレストランにて。前列左端が古谷いづみ先生、お隣に達子先生。後列左端がハワイ在住のジュリア先生。シェリル先生の右が私、隣がK子さん、その前がR君です。 古谷クラスから参加した達子先生、いづみ先生、K子さん・R君親子、そして私と娘、6人の宿の心配をしてくださり、知り合いのトラベル・エージェントを通して、少し割引価格で、食事や買い物に便利な場所にホテルをとってくださった。また、シェリル先生は、車のない私たちが毎日タクシーを拾って夏期学校の会場まで行く不便をしなくてすむようにと、ご自分のクラスのお母さん方にお願いして、私たち3組6人の朝と夕方の車の手配をしてくださった。例えば、私たち親子が到着して早々にいただいた参加パッケージには次のようなメモも入っていた。「朝はヴァレンティーナちゃんとミカエラちゃんという11歳の双子の女の子のお母さんのノエリアさんという方が8:15にホテルに迎えに来てくれます」、「夕方は、最後のレッスンが終わった4時過ぎに建物入口で待っていてください。クレアちゃんとネート君のお父さんのマークさんかお母さんのベッキーさんのどちらかが、ホテルまで車で送ってくれます」。何という細やかな配慮だろう。毎日送迎をしてくださった親子とは、車中でいろいろな話をして心を通わせることができた。そうでなかったら、最後の日の夜、クレアちゃんとマークさんが、夏期学校終了を祝って特大アイスクリームを一緒に食べに行こうと、私たちを夜の繁華街に誘ってくれただろうか。

 シェリル先生クラスの親子で、前年の夏に東京にいらして、古谷クラスとの合同コンサートに出られた方々は、「あのときはお世話になりました」と、私たちにとても親切にしてくださった。「ホテルで食べて」と、朝食のパンやおやつの差し入れをしてくださり、日本に持って帰るお土産までくださった。ハワイの人たちは、一般に、本土の人と比べて人情が厚いと聞いていたが、それを実感した。今度は、いつの日か、古谷クラスの有志でハワイのシェリル先生クラスを訪問し、一緒にコンサートが出来たら。私は密かにそのような夢も思い描いてしまった。

(2)ビーチ・ピクニック

 夏期学校の中日の水曜の夕方、ビーチ・ピクニックと称するイベントがあった。今回、招待講師として本土からいらした先生方を、シェリル先生をはじめとするハワイの先生方がもてなすことを趣旨としたパーティーで、ビーチに、食事や飲み物やデザートをケータリングして、そこで宴をするというものであった。シェリル先生が、「ハワイらしい何かを演出したい」とお考えになり、知り合いに相談されたところ、「ビーチ・ピクニックがいいじゃない!」との提案を受けられ、そのような企画になったのだという。ハワイらしい、くだけたスタイルとは、テーブルも椅子も用意せず、ビーチにピクニック・シートを何枚も敷いて、皆がそこに思い思いに座り、あるいは寝そべったりして、食事や会話をする点、そして、皆の装いがビキニや海水パンツであるという点にある。

 このイベントは、夏期学校参加者全員に開かれていたものではない。基本的には本土およびハワイの指導者だけを対象としていたのだが、我々日本から参加した者は、「遠くからよくおいでくださいました」ということなのだろう、シェリル先生から特別に招待された。古谷クラスの6人と、千葉から参加していたM君親子の合計8人の日本人が、ビーチ・ピクニックに加わった。達子先生、いづみ先生も含め、我々8人も「ドレス・コード」に従って水着姿で参加した。

 真希子は人懐こくて、ピクニックで自分のレッスンを担当してくれている先生を見つけると、ちょっかいをかけに行ったり、抱きつきに行ったりした。先生方も、真希子を抱き上げたり、逆さ吊りにしたりして遊んでくださった。真希子とM君とR君は、ひとしきり食べると、大人の中にいるのが退屈なのか、さっさと海に入って遊び始めた。私は真希子の監督をしてくださったM君のお母様に感謝しつつ、先生方との会話を楽しんだ。

 その日の会話の中で、一つ、とても感動したことがあった。ウィスコンシン州で長年指導にあたっていらっしゃるジェニファー・バートン先生という比較的年配の女性の先生が、達子先生のところにいらして、次のようにおっしゃった。「鈴木先生やあなた(達子先生)のような方によって、この世の中がどれほど良い世の中になったことか!深い感謝を捧げます」と。私は達子先生に通訳をしながら、声がつまり、涙をこぼしてしまいそうになった。ジェニファー先生の言葉は、スズキ・メソードで子どもを教えて60余年になる達子先生への、何よりの贈り物になったに違いない。

4 結びにかえて――お別れコンサート

 1週間の夏期学校の最終日(金曜)の夜6時半から、お別れコンサートがあった。この夏期学校のためにTシャツが作られ、参加生徒は購入することが義務づけられていた。お別れコンサートで、上は「夏期学校Tシャツ」、下は黒か、紺か、白か、カーキのズボンかスカートを着用することになっていたからである。Tシャツは、SS、S、M、L、LLのサイズ展開はあったが、それぞれのサイズが規格よりも少し大きめにでき上がってきたため、多くの子どもたちが、まるでパジャマを着ているような格好になった。夏期学校実行委員長のシェリル先生は、「サイズが大きくて、ごめんなさいね。2年もたてばピッタリになりますから」と謝りつつ、皆を笑わせた。

 コンサートは、まずチェロ科の生徒たちの演奏から。舞台には椅子が並べられ、チェロ科の全員が席についた。最初に上級生による演奏。そして、順に曲が易しくなり、最後は全員が1つになって音を奏でた。

 続いて、ヴァイオリン科の演奏。7巻以上は「上級者クラス」になっており、最初に「上級者」が指導曲集にはないモンティのチャルダッシュと、ヴィヴァルディの四季の「春」を演奏した。ブライアン・ルイス先生のご指導で、わずか5日で見事に仕上げていた。「上級者」が一度舞台を降り、次に登場したのは6巻の生徒たちだった。彼ら・彼女らは、フィオッコのアレグロを演奏した。指導にあたられたアラン・リーブ先生は曲目紹介のときに、「皆さん、フィオッコという作曲家の名前を、この曲以外の曲で聞くことはないでしょう」とおっしゃって、皆の笑いを誘った。5巻の生徒たちは、ヴェラチーニのジーグを演奏した。そして、4巻の真希子たちは、グループ・レッスンを担当してくださったブルック・モーズ先生の合図で、ザイツのコンチェルト2番の3楽章を演奏した。真希子は、演奏した子の中で最年少だったため、最前列中央に立たされた。少し改まった場で演奏するときの真希子は、「本気」を出す。普段、古谷達子先生に口酸っぱく注意されている「お肘で弾く」ことも、こういうときはほぼ完璧に実行する。達子先生は、立派に弾いた真希子を、あとからたくさん誉めてくださった。私は、そういう達子先生に接して、ホッとした。甘ったれと言われそうであるが、私も子どもと同様、いつも叱られたり、悪いところを注意されてばかりだったり、ましてや過去の努力を全否定されたりするような言葉が飛んでくるのには耐えられない。子どもを誉めたり、親をねぎらってくださったりする達子先生が受け持ちの先生であって良かったと、心の底から思った。

 多大な時間とお金をかけてハワイまで来て、今回私が痛感したのは、技術的なことで言えば、基礎を定着させることの重要さであった。具体的には、①正しい弓の持ち方と②正しい弓運び(弓が弦に平らに乗っていること)、そして、夏期学校のレッスンで指摘されたことはなかったけれど、③「お肘で弾く」ことの重要さ。「お肘」については、鈴木先生も歌を残されている。「弓先に 力をきめて ふらつかず お肘で進めよ お馬の毛」。そして、達子先生は、真希子がヴァイオリンを始めて以来、ずっとこのことを重視され、このことばかりを注意されてきたと言っても過言ではない。夏期学校では、お肘の動いていない子も多々見受けられ、その子らの音が響かないことが気になって仕方なかった。前者の弓の持ち方については、真希子が今まさに子どもの持ち方から大人の持ち方に変えたばかりであることを考慮して、達子先生は少し長い目で見てくださっているように思われる。今回、そこをアラン・リーブ先生に厳しく指導された。

 技術的なことの一方で、人間を育てるというスズキ・メソードの原点に立ち返ったとき、私は古谷達子先生の子どもへの愛情の深さを感じずにはいられない。真希子がハワイ到着後に体調を崩しかけたときに、肩をトントンと叩いて眠りに誘い、休養をとれるようにしてくださった。到着して数時間後に、ホテルのお部屋で、時差ボケをとるためにとはいえ、真希子のお稽古の相手をしてくださった。真希子の良さを見つけては誉め、問題のあるところは長い目で見て、じっくり時間をかけて指導しようとしてくださる。私たち親子には、そのような先生との出会いが与えられたのであるが、その幸運を、ハワイに来て、これまで以上に実感したのであった。

 お別れコンサートのフィナーレである全員によるキラキラ星の演奏が終わると、簡単な閉会式があった。司会者は、講師の先生方のみならず、日本から参加した私たち日本人8人に対しても「夏期学校を大いに盛り上げてくれて、ありがとう」という趣旨の謝辞を述べられた。その言葉がマイクを通して流れていたとき、真希子のグループ・レッスンを担当してくださったブルック・モーズ先生が会場をぐるりと見渡され、私と目を合わせると大きく微笑み、「遠いところから参加してくれてありがとう」と言わんばかりに、私の方に手を高く上げて拍手をしてくださった。その気持ちに感激し、「来てよかった!」と胸がいっぱいになった。

 次のハワイの夏期学校は2016年。そのときも参加できるだろうか。参加できることを願いつつ、それまで、親子で日々のお稽古に励みたい。


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